いつもそこに「いる」ということ
ここのところ、近い身内が亡くなるなど公私ともに色々ありまして、様々に思うことがありました。
あったことについては詳しく語るつもりはありませんが、思ったことについて語りましょう。
私たちは何かに対していつもそこに「いる」、もしくは「ある」ことを無意識的に期待して生きています。
そりゃ当然です。期待していない場合は目の前のコップ1つ手に取ることはできないでしょう。
目の前に手を伸ばした時にコップが「ある」ということを期待しているからその行動を起こせるわけです。
では、期待が裏切られた場合は?
当然狼狽するでしょう。あるいは自分の認識が歪んでしまったと思う人もいるでしょう。
だまし絵なんかいい例ですね。
しかし一度抱いてしまった『いつもそれがそこに「いる」、もしくは「ある」』という期待は、
なかなか手放すことはできません。
ここに「過去に縛られる」という言葉が出てきます。過去を乗り越えねば次には進めません。
期待を手放せない状態はある意味過去に縛られた状態です。
常日頃、漫然とした無意識下の「期待」を抱き続けて生きていると、
時たまその期待に裏切られたときに自分がいかにその期待に依存していたかを思い知ります。
野球をやっていた時に、エラーしても、大量失点しても、「切り替えていこうぜ!」という
掛け声がありましたが、その場面を挽回するにはまさにその「切り替え」がとても大事になります。
「期待」を抱くな、とはさすがに言いませんが、「期待」に依存することはやめたほうが良いでしょう。
裏切られた時の失意や戸惑いで変に悩んだり、疲れたりしてしまうものです。
何事もほどほどに、が大事ですね。
そんなこんなで、いつもそこに「いる」ということをたまには疑ってみようかな、と思うのでした。
そうすればいつでも0歳、生まれたての好奇心で生きられるかな、なんて思ったり。
(写真:令和元年狛江・多摩川花火大会 登戸側から撮影)